月報「流山」より

「どんな報いがあるのでしょう」

2021年4月 牧師 宗形和平


「では、私にどんな報いがあるのでしょう。

 それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、

 福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。」    

コリント人への手紙第一 9章18節

 


 

 不思議な表現がされているみことばです。報酬を求めない、権利を十分に用いないことが私の報酬だと語っているからです。「報い・報酬」のところを「喜び」「生き甲斐」と言い換えると理解しやすくなるかもしれません。使徒パウロはイエス様との出会いによって生きる意味、イエス様のために労せる喜びを見出しました。そしてそこにこそ自分への神様からの「報い(賃金・報酬)」はあるのだ、と語っています。

 

 このような喜びや生き甲斐・価値は、イエス様のお姿やことば、そしてふるまいに見出されるものです。神のひとり子で偉大な御力と権威あるお方が、それらを捨て、一人の人間となって報いを求めることなく痛み悲しむ人のそばにいき、癒し、助け、慰め、神様の恵みの御支配があるのだということを伝え続けられました。ところがその最期は、人間の罪を一身に負って十字架の上で死ぬという報いなどどこにあるのか、と思われる死を遂げられたのでした。不条理であり、あまりにもおかしなことです。けれどそのように生き抜かれたお方との出会いによって、使徒パウロには喜びが与えられたのでした。

 

 私たちに用意されている救いは、全くの無償で与えられる神様からの恵みで、この救いに与るためには、お金を払ったり良い行いをしたりする必要がありません。ナザレのイエスがキリスト(救い主)であると信じ、受け入れるだけです。パウロはそのような恵みの福音を否定し、そう信じる者たちを滅ぼそうとした人でした。そのような人物を、けれど神様は捕え、なんと福音を宣べ伝える使徒とまでされたのでした。驚くばかりのこの神様の恵みとあわれみが、パウロに伝道する喜び・仕える喜び、そして生き甲斐を与えました。これは牧師として召された私自身も経験させていただいたことでした。

 

 預言者イザヤは「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ53:11)」と語っています。これはまさにイエス様のお姿の預言でした。そしてパウロの生き方と重なるものでもあります。イエス・キリストのみわざとみことばに驚き、感謝をもって応えて生きる道を知らされたのです。この喜びを誇りとする生き方を私たち教会も知らされています。イエス様の恵みに応え、自分自身を献げて生きる喜びを共に味わう交わりが築かれていきますように。